備中国新見庄「たたら」-備中国新見庄とは

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備中国新見庄

新見市内で当時の荘園のロマンを感じる物は多数あります。特に当時の荘園を舞台に書かれた「たまがき書状」は当時の様子を記した書物ではないでしょうか。

備中国新見庄

新見庄は東寺の荘園

touji_1_2_s.jpg京都教王護国寺 東寺

新見庄はどこ?

 新見庄は備中国北部、現在の新見市周辺。新見市西方付近から新見市千屋(ちや)、神郷町高瀬に広がる大きな荘園でした。平安時代の末期の十二世紀後半、平安 時代末期に最勝光院領として成立。新見の地に荘園が開発されました。新見庄は、その後何度もの変遷を経て、鎌倉時代の末期、後醍醐天皇により京都の寺(教王護国寺)へ寄進され、以後十六世紀の後半に消滅するまで中世の時代に240年間にわたり東寺領荘園として存続しました。新見庄は、幕府方(地頭方)の寺、相国寺の荘園と、領家方の東寺が治める荘園とに分かれていた。その当時、東寺や興福寺のような大寺院の場合、各地に多数の荘園を持っていました。それぞれの荘園から収納した年貢が、寺院全体の運営費用になります。



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「東寺百合文書」に記載の新見庄

 新見庄は鉄・漆・紙などを産する重要な荘園であり、そのことは平成九年に国宝に指定された「東寺百合文書」(京都府立総合資料館所蔵)に新見庄関係の文書が多数残っており確認することが出来る。専門家の間では、「古代は飛鳥、中世は新見」といわれる程でありました。中世荘園の政(まつりごと)、生活が立証できるだけの文書が国宝「東寺百合文書」の中に2干点以上含まれています。 「東寺百合文書」とは,「東寺文書」の中核部分を占め、およそ4万通ともいわれており,平成9年にはすべて国の重要文化財に指定されて京都府立総合資料館の収められている。この中に新見庄に関して、土地台帳を始め当時の新見庄の模様を記した古文書約2千点が残されている。この「百合(ひゃくごう)」とは,江戸時代前期に加賀藩5代藩主前田綱紀(まえだつなのり)が,この文書を整理し目録を作成した上で書写させた際に,百の桐箱を寄進したことにより名付けられた名称である。

東寺と新見市のご縁

tamagaki_minpou_S.jpg当時の備北民報より 新見市は、平成3年から平成18年まで「歴史を活かしたまちづくり」の一環として、「備中国新見庄まつり」を開催していました。先ほど紹介した「東寺百合文書」の中に「たまがき書状」があり、これは東寺の代官祐清の身の回りを世話した「たまがき」という農村女性が書いたもので、祐清か殺害されたことを悲しんで片身の品を乞うた書状であります。この返書を求めてボーイスカウトの発団25周年記念行事として東寺へたまがきハイクを行ったのが、東寺とのご縁をいただいたきっかけとなりました。

新見庄とたたらの始まり

 平成5年に、(社)新見青年会議所(理事長 藤井勲)は創立25周年記念事業として 「夢ロマン新見庄づくり・・・、いまたたらがよみがえる」を企画致しました。国宝「東寺百合文書」の中に年貢として、鉄を納めていたという記録があります。
 私たちは、地域に数多く残るたたら跡は知っていますが、「たたら製鉄」についても、それぐらいの知識でした。そこで自ら本当の「たたら製鉄」を知りたい、やってみたい気持ちから、先人の知恵、技術、苦労を知り、市民とともに地域に残る伝統・文化を共有したいと考え、そしてできた鉄で燭台一対を東寺に奉納することを計画に入れました。
実践するために指導していただける人を探していましたが、これもご縁かもしれません。
島根県仁多郡横田町に日本で唯一のたたら吹き国選定保存技術保持者であります木原明村下と出会うことができました。私たちの思いの丈お伝えいたしましたところ、一度は断られましたが、最後には木原村下は「たたら製鉄」について全く無知な私たちのことを寛大な誠意をもって受けとめてくださいました。幾度か横田の地を訪ね、新見にもお出でいただき、御指導・御協力の了解を得ることができました。これが木原村下と私たち新見との繋がりのはじまりです。
 現在、干屋温泉に隣接する山中に近代でありますが、たたら製鉄跡地がほぼ完全に近い状態で残っておりましたが、今ではいぶきの里スキー場ゲレンデ下に眠っています。このたたら製鉄跡地において平成5年9月に初めてだったのですが思いのほか順調に実施できました。
 平成10年、備中国新見庄ロマンの里づくり委員会が再度「備中国新見庄まつり」の中に体験型の核としていま一度ご指導をお願い致しました。いろいろな条件をクリアーしながら、平成11年10月はじめて吹き差しふいご6丁を人力で駆動し21時間に及ぶ「中世だたら」の再現事業を行うことができました。「中世たたら」は木原村下のご指導のもと、横田町内の中世の製鉄遺跡で発掘された炉床や炉壁を参考にモデル化し、再現することができました。今年度で10回目の操業を実施いたします。平成19年度より学習たたらということで商工観光課から教育委員会へ所轄替えされました。
 私たちは、先人の知恵・技術・苦労・歓びを学ぶとともに地域の発展につくしていただいた偉人たちに一歩でも近づき、おもいを共有したいだけであります。全員が結束して誠心誠意、意欲的に取り組んだ成果として和鋼を吹くことができました。木原村下には、「たたら製鉄」を学ぶことと、その精神を学ばせていただいております。
 日刀保たたらを見学させていただき、木原村下をはじめ操業されている方々を見ていると、何故か目頭が熱くなります。先人たちに思いをはせると姿が重なって見えてきます。
 今後も、誇りあるまちづくりに力をそそいで行きたいと考えています。地域の皆様にもっと深くご理解いただきその大切さを知っていただくのが、私たちの使命であり大いなる夢だから・・・。

「たまがき書状」

たまがき書状(平成9年に国宝に指定)
 新見庄は、幕府方(地頭方)の寺、相国寺の荘園と、領家方の東寺が治める荘園とに分かれていた。名主らが東寺に直務支配を要求し聞き入れられて、1462年、京都から新見庄東寺から祐清(ゆうせい)という僧が新しい代官として新見に派遣された。 この時、京都から新見庄に下向した祐清の世話をすることになったのが、領家方の役人福本盛吉を兄に持つたまがきであった。
 翌年の8月、祐清は二人の供を連れて税の取り立てのために出かけた。地頭方の領地を通りかかると、新築中の屋敷の中から村人たちが出てきた。「普請中の家の前を通るときは下馬するのがこの土地の古くからの習いだ」と、言いがかりをつけるといきなり祐清たちに斬(き)りつけ、祐清と供の一人は殺されてしまった。
 彼女は祐清亡き後、その遺品を整理すると東寺へ一通の書状をしたためた。そこには形見として、白小袖と紬(つむぎ)の表、そして布子の三品をいただけたらどんなに嬉(うれ)しいかと切々と書かれている。「(略)さてさてゆうせいの御事、かやうに御なりことが、御いたわしさ、なかなか申はかりなく候(中略)このほとなしみ申候ほとに、すこしの物おは、ゆうせいのかたみにも、みまいらせたく候、給候ハ、いかほと御うれしく思まいらせ候(略)」